宗教哲学会奨励賞について

宗教哲学会では、宗教哲学の領域における若手研究者の優れた学術業績を顕彰する「宗教哲学会奨励賞」を設置しています。
過去5年間の『宗教哲学研究』に掲載された、受賞年度の年度末に45歳以下の方の論文が選考の対象となります。
宗教哲学会奨励賞の詳細は「宗教哲学会奨励賞内規」をご参照下さい。

第10回宗教哲学会奨励賞

古荘匡義
「綱島梁川の宗教体験と宗教哲学」
(『宗教哲学研究』第38号、48~60頁、2021年3月)

選考結果報告

本論文は、綱島梁川の思索の道程を、京都学派を中心とする「日本の宗教哲学」の「前史」として位置づけようとする、独創的な研究である。綱島は「見神の実験」と称する宗教的な神秘体験を標榜したことで知られ、これまでの綱島研究は、その体験内容や、それにもとづく宗教思想を主題とするにとどまっていた。それに対し、本論文はそこに、京都学派的な日本の宗教哲学に繋がりもするような独自の思索形態の成立を見届けようとする。

著者はまず、初期には「宗教の本質や意味を哲学的に追究していく」「哲学としての自律性を保った」既存の宗教哲学の域を出なかった綱島の思索が、上述の体験を境に、宗教体験に含まれる信仰の論理を言語化するものへと次第に変化していくありさまを綿密に追跡する。その際、著者が綱島自身の論考だけでなく、綱島が参照した西洋の様々な宗教哲学の議論をも視野に入れて考察を展開していることは注目に値する。というのも、そのことによって、上述の「実験」前後の思索の性格の変化がきわめて具体的に、見通しよく示されているからである。

さらに、著者によれば、この変化がもたらした思索の新しい性格は、晩年の綱島による浄土教受容に鮮明に現れている。そこで綱島は、自らの体験に「宗教の本質」を見るような解釈を保持しながらも、この体験を、逆に既存の宗教伝統の語彙や実践の方から深められてもいくような事柄として受け止めており、そのことによって、いわば普遍的・本質主義的な「宗教」概念を相対化してもいるのである。このような綱島の思索のスタイルを、著者は現代哲学における「ポスト哲学的」とも称すべき趨勢を念頭に置きつつ、「ポスト宗教的」と仮称している。

以上の考察にもとづき、著者は綱島の思索を、体験を思索の外部に据え、これを広義の「証言」(体験言説)によって思索に反映させるものと解釈する。それに対し、京都学派的な日本の宗教哲学は、たとえば「自覚」といった術語を駆使して、そのような思索の立ち上がりそのものを思索のうちに取り込んだ(その意味で「ポスト哲学的」)と整理される。著者によれば、両者のこのような関係が、前者を後者の「前史」として位置づける可能性を示唆するのである。

以上、本論文はその綿密な考証により、ただたんに綱島研究として優れているのみならず、宗教哲学という営みそのものに多大な刺激を与える所見を含むものとして高く評価できる。

とはいえ、本論文にも問題や課題は散見される。とりわけ、「綱島思想を日本の宗教哲学の前史として位置づける」という最終目標が、本論文においては、なお概略的な「可能性」の提示に終わっていることは、当然ながら、著者の今後の研究に大きな課題を残すであろう。この点については、上述のように「体験」に集中する思索がさらにどこへと向かいうるか(首尾よく日本の宗教哲学に「接続される」か)という疑問が提示されたことなどを言い添えておかなくてはならない。また、綱島と日本の宗教哲学との関係を先のように整理し、前者を後者の「前史」と位置づけるならば、そのような把握がかえって綱島自身の思索の独自性を曖昧にすることもありえよう。

以上のように、本論文にはなお克服すべき問題や応答すべき課題があるが、提示されたかぎりの考察の成果はきわめて明晰であり、さらには、宗教哲学という営みそのものの成り立ちに注目し、たんなる綱島思想研究には尽きない射程を感じさせる点、今後の研究にもさらなる進展が期待される。したがって、本選考委員会は、本論文が宗教哲学会奨励賞にふさわしい業績であると判断する。

 

2023年3月25日

宗教哲学会奨励賞選考委員会
委員長 岩田文昭
佐藤啓介
谷口静浩
長町裕司
松本直樹

第9回宗教哲学会奨励賞

下田和宣
「宗教史の哲学――ベルリン期ヘーゲル宗教哲学におけるその展開と意義」
(『宗教哲学研究』第34号、58~71頁、2017年3月)

選考結果報告

本論文は、ヘーゲルのベルリン期(1818~31年)における宗教哲学の展開を「宗教史の哲学」として見定め、その意義を確認することによって、ヘーゲル研究に新たな視点を提出するにとどまらず、宗教哲学の新たなあり方を見出そうとする意欲的な論文である。

著者によれば、ヘーゲルはベルリン大学で、4回にわたり「宗教哲学」を講義している。いずれも第一部「宗教の概念」、第二部「規定的宗教」、第三部「キリスト教」という構成になっているが、注目すべき点は宗教史的記述と哲学的思考を接近させた、「宗教史の哲学」とも言うべきヘーゲルの宗教哲学のあり方である。この「宗教史の哲学」は、今日まであまり詳しく顧みられなかったが、20世紀後半、新たな「筆記録・手稿選集」が刊行され、4回にわたる宗教哲学講義の内容が明らかになることによって状況は変化した。ヘーゲルの講義は、当時のベルリンに国外から伝えられた諸文化・諸宗教の情報に対する哲学的把握の努力の跡であることが明らかになった。

その努力の跡を辿ると、1827年の3回目の講義で、次のことが初めて明確に示されている。それは「各宗教と、直観や象徴といった諸々の主観的精神の契機が対応づけられ」、「『知性』の諸契機は、諸々の文化宗教の前概念的な水準で形成される表象体系のなかで凝集化し、形態化する」ことである。そうした様子を明らかにするためには、教説や感情のみならず、図像や神話さらに儀礼を本質的に宗教的な事柄として把握することが必要であるが、これらの現象を解明できるのは、宗教を概念と直観の中間領域つまり表象として考察し、かつ宗教の概念とその完成への過程という中間領域を宗教史として考察する「宗教史の哲学」以外にはないという。

以上のように、本論文は、宗教哲学におけるヘーゲルの「宗教史の哲学」の意義を明らかにしている。さらに、その具体相を「起源への思考からの距離」として取り出しているのも興味深い試みである。ただ、本論文にも問題や課題がないわけではない。著者はその試みにおいて、1827年の講義に依拠すると言いながら、決定的なところで24年の講義での発言を引用して、その試みの意図の理解に混乱をもたらしている。また、「宗教史の哲学」や「絶対者からの距離」という基本的用語がヘーゲル自身の言葉なのか、著者がヘーゲルの叙述をまとめて作り出した言葉なのかが明確ではない。さらに全体としても、議論の中で意欲が先行してしまい、依拠しているテキストとの関連が不明なところも散見される。紙幅の問題もあったと思われるが、著者には今後、テキストに密着しながら、本論文の主旨をじっくりと綿密に展開していっていただきたい。

以上のように、下田氏の論考には、いまだ克服すべき種々の課題が見られるが、今後の研究に一層の進展が期待される。したがって、本選考委員会は、本論文が宗教哲学会奨励賞にふさわしい業績であると判断する。

 

2022年3月26日

宗教哲学会奨励賞選考委員会
委員長 澤井 義次
岩田 文昭
門脇 健
美濃部 仁
松本 直樹

第8回宗教哲学会奨励賞

坪光生雄
「チャールズ・テイラーの認識論と宗教史――「身体」をめぐって」
(『宗教哲学研究』第35号、104~117頁、2018年3月)

選考結果報告

本論文は、チャールズ・テイラーの宗教論に関するタラル・アサドやセシル・ラボルドらによる批判が妥当性を欠くことを指摘したうえで、テイラーの宗教論の特徴とその現代的意義を明らかにすることを狙ったものである。アサドらが、テイラーの宗教理解を、内面的「信仰」を特権化して「身体」とそれに基づく儀礼等の実践の意義を否認するリベラル=プロテスタント的宗教理解に依拠しており、その議論が認識論的にも政治的にも不適切であると批判するのに対して、坪光氏は、テイラーにとって宗教は単に内面的な信仰に留まるものではなく、むしろ彼の哲学が、近代宗教史の「脱魔術化」を一面で踏まえつつも身体を重視し、宗教におけるその意義を正当に評価するものであると述べる。

坪光氏は、第一節と第二節においてテイラーの『実在論を立て直す』を取り上げ、テイラーの認識論が、内と外との区別を前提とする近代認識論の「媒介説」を批判し、「従事的」態度に基づく「接触説」の立場を取ることで「身体化された理解」を重視していること、さらに、従事的態度の条件として「頑強な実在論」を認めることによって、従事的態度と科学的進歩との両立可能性を示していることを明らかにする。その上で、第三節と第四節では、宗教史を展開する『世俗の時代』においてもテイラーが身体重視の思想に基づき、近代認識論と軌を一にする内面的信仰への宗教の還元に抵抗しつつ、信念や規範の多元性のただなかで確かな進歩を担保する普遍的基準点を身体の文化横断的な普遍的構造に求める議論を提示していると論じ、彼の宗教論と認識論とにおける身体重視の一貫性を指摘している。

以上のように、テイラーの認識論と宗教論に一貫する身体重視の思想のうちに従来のテイラー批判が見過ごしてきた論点を的確に指摘する本論文の論旨は明快である。また、身体的接触に基づく直接的世界把握の実在論が信念の差異を収束させる進歩を支持するとともに、その近代認識論の脱構築を通して霊的充溢との接触の場に関する理解を拡張するという両面的で込み入ったテイラーの思想を読み解き、その要点を簡潔に叙述する手腕は巧みであり、その身体論に指摘された両面性はポスト世俗化の時代の宗教哲学にとって大いに示唆的である。

もちろん、問題点も認められる。たとえば、テイラーの認識論と宗教論の両方の身体論を統合する議論が十分に展開されていない、宗教史を主題とする第三節、第四節において身体に関する具体的な宗教史の問題に直接論及がなされていない、などである。しかし、その「おわりに」における「受肉」、「神の愛」と性愛との繋がり、そのような愛の交わりのネットワークの総体としての「教会」に関するテイラーの思想をめぐる簡潔な叙述は、この論点に関する今後の研究への布石と見なしうる。

以上のことから、選考委員会は、坪光氏の標記論文を2020年度宗教哲学会奨励賞に相応しい業績と判断する。

 

2021年3月27日

宗教哲学会奨励賞選考委員会
委員長 美濃部 仁
秋富 克哉
門脇 健
澤井 義次
保呂 篤彦

第7回宗教哲学会奨励賞

山根秀介
「ウィリアム・ジェイムズにおける宗教的な経験と実在」
 (『宗教哲学研究』第36号、57-70頁、2019年3月)

選考結果報告

本論考は、表題が示すように、心理学から哲学にわたって広く独自な思想を展開したプラグマティズムの思想家ウィリアム・ジェイムズにおける宗教的な経験と実在という主題を、特にその真理観に即して考察したものである。

筆者は、まずジェイムズの著作『プラグマティズム』(1907年)とその続編『真理の意味』(1909年)をもとに、経験と実在との一致という真理観を日常的・科学的な感覚的経験の領域において押さえたうえで、この真理観が宗教的領域でも妥当するかを問いとして立てる。そこで、著作『宗教的経験の諸相』(1902年)と『多元的宇宙論』(1909年)における宗教的経験理解を検討、ジェイムズが、真理は程度差を許容するとすることで、非宗教的真理と宗教的真理とを統一的に捉える視点を提示したことを示す。宗教的経験の実在は、感覚的に捉えられるものではないが、感覚的世界の「外」から、この世界に影響を及ぼし、われわれにその存在を実感させるものである。ここに筆者は、現実に生み出された効果によってその実在を肯定するプラグマティズムの立場を確認する。「外」とは、ジェイムズが「より以上のもの」「より高い部分」と呼ぶ「潜在意識的」領域であり、私たちの意識的生と薄い膜によって接しているこの領域こそは、神秘的な出来事、神と人間との接触の場に他ならない。しかし、筆者はそこから、「純粋経験」概念を導入することで、この領域が宗教的実在の領域であるのみならず、さらに認識論や存在論の哲学的領域となることを考察し、ジェイムズにおいて宗教論と形而上学が合流することを示す。そして最後に、改めて冒頭の真理の問題に戻って、宗教的経験が個人に対してもつ「効用」から真理を捉えるプラグマティズムの立場により、ジェイムズが宗教的実在・真理と非宗教的実在・真理とを統合的に位置付けようとしたとして論を閉じる。

以上、感覚的経験に即しつつ宗教的実在や真理に向かったジェイムズさながら、主題の究明に向けて一歩ずつ階段を登るように進められる筆者の論述は明快で、全体の構成も整っている。そのつど注で先行研究に言及し、本研究の位置づけを確認する堅実な態度も認められる。プラグマティズムの真理観をもとに、ジェイムズが日常的・科学的領域から宗教さらに哲学までを統一的に捉えようとしたことを明確にした努力は、大いに評価されてよいであろう。

その一方で、本論考にも問題や課題がないわけではない。最終節で「純粋経験」を提示した箇所は、分量的な制約があるとは言え、やや記述が性急となっている。真理観についても、感覚的経験という共通項に基づくものの、日常的真理と科学的真理の関係については検討の余地がある。「潜在意識的領域=宗教的領域」という構図についても、さらに議論が必要であると思われる。また、ジェイムズが方法的に引き継いだとして言及されているパースとの思想的関係といった哲学史的課題も存するであろう。

しかし、これらは、今後筆者がジェイムズ思想の研究を推し進めていくうえで求められるものである。本論考は、そのような種々の課題に向かう出発点として豊かな可能性を含んでおり、その展開を期待させるものである。

よって、本審査委員会は、山根氏の本論考が奨励賞に相応しいものであると認めた。

 

2020年3月25日

宗教哲学会奨励賞選考委員会
委員長 秋富 克哉
岡村 康夫
土井 健司
布施 圭司
保呂 篤彦

 

第6回宗教哲学会奨励賞

津田謙治
「護教家教父思想における神の場所の問題―哲学的場所概念への応答」
(『宗教哲学研究』第31号、107-120頁、2014年3月)

選考結果報告

津田謙治氏は本論文で、初期キリスト教二世紀における護教家教父、ユスティノス、テオフィロス、アテナゴラスによる神の場所論を考察している。神の場所という問題は、主に外部の哲学者に向けた護教論の中でギリシアの神々を論駁し、超越的な唯一神の在り方を示す鍵概念であるが、(ユダヤ人の)聖書における神の擬人化表現と矛盾するため、彼らは聖書解釈も手掛けている。

津田氏は三名の原典の関連箇所を分析し、要点をまとめる。「神は場所にも何ものにも包括されない超越的存在である」との主張は三名に共通する。ユスティノスによれば、神はこの世界に接触しない超越的叡知的存在で、「自らの不変の場(コーラ)に留まる。」テオフィロスはギリシアの神々を場所に包括される存在で真の神ではないと否定し、神は場所に包括されず、神自身が場所(トポス)であるという。また神と神のロゴスを区別し、ロゴスは特定の場所に出現するという。アテナゴラスは、神は「世界を創造し、自らによって世界を満たしながら、摂理によってこの世界に働きかけて」おり、世界を創造する神は唯一神以外にありえないと主張する。

続けて、津田氏は彼らの場所論を哲学的議論として考察する。本論文の副題は「哲学的場所概念への応答」であり、「存在者の外側を包む端」を場所とし、「その最端は不動で何ものにも包まれない」とするアリストテレスの場所論と教父たちの神観の符合を示し、他の哲学者たちの場所概念との対比も考察する。ただし、超越的次元の神の場(コーラ)と空間的場所(トポス)との相違、およびプラトン哲学と教父たちのコーラの概念の異同についてはより詳しい説明が望まれる。次に聖書解釈の観点から検討を加え、彼らが聖書の神の表象を哲学的な場所の議論の中で捉え直しているという。テオフィロスは、エデンの園での神の出現では父なる神と神のロゴスの分離は問題にならないという。

本論文の最後の部分で思想史的な位置づけに触れ、神の場所論は、フィロンの影響もあるようだが、彼らの護教論の中で初めて取り上げられ、この議論はその後エイレナイオスやテルトゥリアヌスに引き継がれる。そこでは、テオフィロスによる「神と異なったロゴスの役割」といった「神的概念の探求とともに」、場所論はキリスト教内部の異端反駁に用いられると記されている。本論文では場所の問題は父なる神に限定して論じられ、この世に到来したイエス・キリストには言及がない。それがなぜなのか、またロゴス論がどのように展開されるのかについてもう少し説明があれば、護教目的だった場所論が後に内部の異端反駁に用いられる理由を理解しやすく、本論文全体の意義をより深く読み取ることができたように思われる。

とはいえ、本論文の功績は、神の場所を取り上げることによって、唯一神が単なる神の数の問題ではなく、超越的次元の問題であることを説得的に説明した点にある。一か多という相対的なものは場所の中の数の問題だが、唯一神は場所のどこかではなく、場そのもの、あるいは場所を超越した次元のものでなければならない。神の場所論を神の唯一性と超越性の論証に結びつけたところに、津田氏は教父たちの思索の努力を認めている。キリスト教の神学思想形成期の難しい問題を一論文の範囲内で手堅くまとめ、全体的に、資料の扱い方、研究史、思想史への配慮など、いずれにおいてもバランスが取れた論述になっている。

以上により、選考委員会は本論文を二〇一八年度宗教哲学会奨励賞にふさわしいものと判断する。津田氏の今後の研究の進展に期待したい。

2019年3月23日

宗教哲学会奨励賞選考委員会
委員長 小田 淑子
委員  岡村 康夫
    茂 牧人
    土井 健司
    布施 圭司

 

第5回宗教哲学会奨励賞

竹内綱史
「ニーチェにおけるニヒリズムと身体」
(『宗教哲学研究』第33号、43-56頁、2016年3月)

選考結果報告

竹内綱史氏の右記論文は、ニーチェによるニヒリズムおよびその克服についての理解を、ニーチェの身体論に定位しつつ再解釈することを目的として書かれた論考である。ニーチェのニヒリズム論の影響力と、今日なおそれが持つ重要性については、あらためて指摘するまでもない。またそのゆえにすでにこのテーマについては、膨大な議論の蓄積がある。そうした中で本論考は、現在のニーチェ解釈の動向への批判的応答というかたちで、とりわけニーチェの身体論に着目しつつこの問題を論じた点に独自性があり、明晰な議論の展開と相俟って、十分な説得力をもつすぐれた論考となっている。選考委員一同、本論考を第五回宗教哲学会奨励賞に値するものと判断した所以である。

出発点となるのは、通念に反しニーチェを「宗教的」であり「共同体主義者」であるとするJ・ヤングによるニーチェ解釈である。竹内氏はこの議論を取り上げ、批判を加えて行くが、それはニーチェを一方的な宗教批判者とする従来の紋切り型の解釈への単なる逆行ではない。竹内氏は、ニーチェの言うニヒリズムを科学的世界像により価値一般が反実在論化されたことに呼応するものととらえ、これに対抗するニーチェの戦略を、この反実在論を真理についての反実在論へとラディカルに展開することの内に見る。ここからすれば、ニーチェはニヒリズムを全面的な「パースペクティヴィズム」への中間段階に過ぎない、と見ていることとなる。そしてその延長上に、ニーチェは世界との和解を希求するが、竹内氏はそれが身体理解に定位してなされると見る。ニーチェにとって、身体は「私」に先行し、内に闘争と多数性を孕んだ生命体である。そしてその身体がそれ自身生命体としてパースペクティヴ性をもち価値世界を生きていることから、ニーチェは人間が価値世界に住まうことを正当化し、またニヒリスティックで没価値的な世界像が非本来的なものであると結論づけることとなる。竹内氏はこれらを踏まえて、ニーチェのキリスト教批判をあらためて検討する。とりわけ問題となるのは、身体を軽蔑し、「生に反抗する生」を選択するという禁欲理想の倒錯性である。ニーチェはこの理想を唯一真に体現したイエスに一種のアンビヴァレントな態度を示すが、それでもやはり竹内氏は、ニーチェがキリスト者を「デカダンスのタイプ」として見ていたと結論づけるのである。

竹内氏自身も言及するように、「権力への意志」や「永劫回帰」などのニーチェの根本思想と身体性による和解の思想がどのように関係づけられるかなど、残された問題は多い。また、キリスト教以外の宗教、例えば非禁欲的な諸宗教をニーチェはどの程度知悉していたか、ニーチェのキリスト教批判は宗教批判一般へと通じるか否かなど、宗教一般に関わる議論も必要であろう。

しかしニーチェ思想において身体がもつ含意を明るみ出したことは、ニーチェ解釈の新たな展開を予期させるものであり、竹内氏の今後の活躍が期待される。宗教哲学の思索にとってニーチェの思想との対峙は不可欠であることを考えるならば、竹内氏の業績は宗教哲学一般にとっても極めて有意義なものとなるであろう。

2018年3月24日

宗教哲学会奨励賞選考委員会
委員長 高田 信良
委員 小田 淑子
茂 牧人
寺尾 寿芳
深澤 英隆

第4回宗教哲学会奨励賞

長坂真澄
「レヴィナスにおける主体の脱領域化―カントを背景に」
(『宗教哲学研究』No.29、70-83頁、2012年3月)

選考結果報告

本論文は、理性的努力と無条件の恩寵への信仰との両立不可能性のパラドックスをめぐる問題を、「根源悪」に対するカントとレヴィナスの捉え方の相違に焦点をあてながら考察した、真摯な取り組みである。

カントは、理性的な内的努力では凌駕しがたい悪の超越性と、理性的努力によって制御可能な悪の内在性との両立不可能性を調停するために、理性を理論理性と実践理性とに境界設定することで解決させる。つまり理論理性では調停不可能だとしても、実践理性では調停が可能となるのである。

論者は、啓示宗教を形作る広域の円と、理性宗教を形作る狭域の円というメタファーを用い、中心を共有する二つの同心円として説明し、カントによる信と知のアンティノミー解決の鍵が、この二領域の境界線上に媒介として位置する「キリストの形象」のうちにある、と指摘する。つまり悪は狭域を構成する理論理性においては超越的だが、広域を構成する実践理性の内部では内在的であるとし、この二つの領域の境界線上に位置する「キリストの形象」こそが、信と知の調停地点とされる、と論者は見る。

しかしレヴィナスからすれば、カントにおける理性の「境界設定」は、批判する有効なる領域をなお前提していて不徹底である。知の自己批判は無能力であることを自覚し、「恥」の経験となるのであり、それは「主体の脱領域化」と呼ばれる。そしてレヴィナスは、他者たちの受苦を自ら引き受ける「メシアとしての私」の概念を導出する。 

しかし論者は、カントの謂う実践理性を、理論理性の運動の脱領域化をなす運動として捉え直し、カントの悪のパラドックスの解決を解決と見なさず、内在性と超越性の二面性を持ちながら、その超越性を内在性に転じ、受苦を自らに引き受けるメシアとしての命令が必要となる、と締めくくる。

このように本論文は、テクストの単なる祖述にとどまることなく、優れた読解力を駆使しつつ、論者独自の強靭な思索を展開させており、宗教哲学のあるべき一つの形を提示したものと評価できる。

以上により、選考委員会は、長坂論文を2016年度宗教哲学会奨励賞にふさわしいものと判断する。長坂氏の研究の今後の進展が期待される。

2017年3月25日

宗教哲学会奨励賞選考委員会 委員長 井上克人

第3回宗教哲学会奨励賞

後藤正英
「世俗と宗教の翻訳可能性」
(『宗教哲学研究』No.32、42-54頁、2015年3月)

選考結果報告

後藤正英氏の上記論文は、1990年代以降、宗教論を新たな哲学的な問いとして展開しつつあるハーバーマスを中心に、「宗教」と「哲学」との緊張を内包した関係性を現代の思想状況において描き出した洞察あふれる論考である。宗教を哲学的に論究する可能性について、現代に生きるわれわれが共有する問いとして、広範な視点から柔軟かつ適格な考察が行われている。その点で、本論文は宗教哲学のあるべき一つの形を提示したものと評価できる。また、考察の方法や手順は説得的で、叙述も繊細にして正確であり、豊かな展望が示されている。以上により、選考委員会は、後藤論文を2015年度宗教哲学奨励賞にふさわしいものと判断する。

ポスト世俗化の時代という現代理解のもと、ハーバーマスは、これまで啓蒙的理性によっていわば解決済みのものと見なされてきた宗教を、哲学によっては代替できない固有性を有するものとして積極的に論じる試みを進めている。論者は、ハーバーマスが提出する「翻訳」というキーワードに注目し、ハーバーマスの立論を、サンデル、ラッツィンガー、テイラーらとの間で行われた対論を検討することによって、分析を進める。翻訳とは「世俗的理性による宗教的伝統の解釈」を意味しており、世俗的理性と宗教的伝統が相互に学び合う学習過程の中に位置する。ハーバーマスは、宗教的事柄に対する不可知論に立ちつつも、宗教的言説のために公共圏における場を空けておく仕事を哲学の課題と認識しており、たとえば、聖書的な「神の似姿」に由来する人権概念を、哲学が翻訳することで宗教共同体を超えた公的な価値へと広げた成功例として論じる。この洞察は、カント哲学の伝統に依拠した、ポスト形而上学時代の哲学的宗教論にほかならない。論者は、この翻訳問題の考察を通して、現代の宗教哲学が取り組むべき難題、つまり、「ある思想が、どこまで、そしてどのように宗教的源泉に関係しているか、という問題」を明確に取り出した。

もちろん、この宗教哲学の難題は、さらなる思索を要求とするものであり、本論文はその一端を論じたに過ぎない。しかし、論者は、カント、ハーマン、メンデルスゾーンの啓蒙思想期の議論に遡ることによって、さらなる思索の道を具体的に描いている。後藤氏の研究の今後の進展が期待される。

2016年3月26日

宗教哲学会奨励賞選考委員会 委員長 芦名定道

第2回宗教哲学会奨励賞

田鍋良臣
「神話・自然・詩作 ―ハイデッガーの始源の道とヘルダーリン」
(『宗教哲学研究』No.30、95-109頁、2013年3月)

選考結果報告

田鍋良臣氏の上記論文は、ハイデッガー後期思想をヘルダーリン読解を通しての「始源の道」ととらえることによって、前期の『存在と時間』期の後半から後期の「四方界」まで通底するいわゆるハイデッガー的なるもの(始源の思索・詩作)の内実を「神話」の視点から明らかにしようと企図としたものであるが、一般に難解といわれるハイデッガー思想の根本動向を「始源の道」の一点に集中展開した論述のほころびの無い手堅さが、本論文の目論見を成功に導いているといえる。またハイデッガーの「始源をめぐる思索の連続性」とともに「四方界へと至る道程の一端」に光を当てたいという本論文の独自の主張は、ハイデッガー哲学にたいする深い理解と射程の広い思索力を示しており、論述内容の密度と論文の完成度の高さから見て著者の力量を端的にうかがい知ることができる好論文である。よって選考委員会は同論文を2014年度宗教哲学会奨励賞にふさわしいものと判断する。

「四方界」の思想は、「大地と天空、死すべきものたちと神的なものたち」の四者の結集するところに「存在の現出」をみるハイデッガーの思索・詩作の後期の結実であり、ヘルダーリン読解を通じて獲得された神話的な世界観であることはよく知られているが、著者はそこに「神話問題」を読み取る。神話は始源の根源体験をふくむゆえに哲学自身の根源でもあって、思索の本質は「哲学自身の由来した神話という根源との絶えざる対決」にほかならず、それが著者のいう「神話問題」である。神話が問題となる前提条件は「自然の隠れ」という根本経験とヘルダーリンの詩作の二つであるが、最初の始源から別の始源に通じる「始源の道」を歩む際の不可欠な要件がヘルダーリン読解であるとして、詩作の本質とその根本気分として、「存在の建立」と「聖なる悲しみ」が思索され、「ヘルダーリンの歌う将来のドイツの神話もまた、四方界を準備しつつ、西洋の「別の歴史の別の始源」を基づける」と結ばれる。こうした著者の見解は、ハイデッガー研究を超えて広く宗教哲学的思索を刺激するものとして本学会の発展に資するものであり、田鍋良臣氏の研究の今後の進展が期待される。

2015年3月28日

宗教哲学会奨励賞選考委員会 委員長 鶴岡賀雄
委員 芦名定道
垂谷茂弘
平林孝裕
細谷昌志

第1回宗教哲学会奨励賞

伊原木大祐
「レヴィナス、アンリ、反宇宙的二元論」
(『宗教哲学研究』No.30、53-68頁、2013年3月)

選考結果報告

伊原木氏の上記論文は、フランス現象学の神学的転回と呼ばれる事態についての独自の理解にもとづいて、難解な印象を与える現代フランスの宗教哲学の根本的性格に関して、射程の広い刺激的な見方を提出するものであり、この領域における著者の広い知見と深い理解、独創的な思索力を示している。論述の手際は巧みで論旨も明快であり、選考委員会は同論文を2013年度宗教哲学会奨励賞にふさわしいものと判断する。

伊原木氏は、「神学的転回」の主導者たちの中で、とくにレヴィナスとアンリに着目する。そして両者の哲学の核心に「反宇宙的二元論」と氏がよぶ思考動向を見て取る。レヴィナスに関しては、初期の術語である「ある(il y a)」に閉じ込められた世界を一種の悪としてとらえ、そこからの脱出と新たな倫理的主体および共同性の成立が目指される理路を、「実詞化」、「繁殖性」、「創造」といった鍵概念の解明によってたどっていく。アンリに関しては、諸現象が外部の世界地平に「超越」として「脱立(ek-stasis)」する様式と、「内在」ないし「生」の直接性において自己顕示するそれとを峻別した主著『顕現の本質』以来の二元論が、晩年のキリスト教三部作において、生の忘却による「この世」への従属からの「再生」を説く「肉の救済」の哲学として語り直される経緯を詳述する。そして両者の哲学はともに、この世の通常のあり方を構成しているものとは質的に異なる高次の知(「グノーシス」)を、ユダヤ・キリスト教の伝統に接続する語彙と思考法に拠って探求するものであり、それがこの世の悪から人間を「救済」するものとして意義づけられていることを明示する。その上で彼らを、フランス現象学という文脈とは別に、20世紀西欧の「宗教的二元論」の思想家たち(氏はS・ペトルマン、G・バタイユ、S・ヴェイユらを挙げる)に近づけようとする。

こうした氏の見解は、一篇の論文で論じ尽くせるものではなかろうが、現代フランス哲学の宗教哲学としての側面を、新鮮で生産的な展望とともに説得的に提示しえたことの意義は明らかである。伊原木氏の研究の今後の進展が期待される。
2014年3月22日

宗教哲学会奨励賞選考委員会 委員長 鶴岡賀雄
委員 芦名定道
垂谷茂弘
平林孝裕
細谷昌志